田舎の祭に行ってみたら異界のようだった

東京で仕事を辞めて、今の田舎に引っ越してきてから数ヶ月が経った。

雪が融けてだんだん温かくなってきた最近だけど、桜が開花していくのを追いかけるように民家の塀の内側から白い旗がにょきにょきと伸びていることに気づいた。

白い旗という表現は生ぬるくて、なんかもう戦国時代の幟を一般家庭用にしたみたいなビッグサイズ。
よく分かんないけど何か文字が書いてあった。

まあ控えめに言っても奇妙な光景で、写真を撮ろうと思ったんだけど「あそこのおっちゃんが…」みたいな変な噂が立つのも嫌なので自粛した。
なんたってそこは民家だからね。

スポンサーリンク

その村にはお祭りがあるらしい

村って言うけどね。
近隣住民の方々は「集落」っていう表現をしていてちょっとびびります。

その辺で第一村人をつかまえて白い旗が何なのかを聞いてみる。

「旗の秘密を知ったからには…」

なんていう展開にはならなくて、お婆さんは快く理由を教えてくれました。

「祭やるからね」
(「やるからね」は方言とか訛り混じりで本当にそう言ったのかは分からない)

とりあえず、祭らしい。

祭をやるなら、まあ神社だろう、と。
まさか西武某線沿線みたいに学校の校庭借りてやるような商売のための祭じゃないんだろうな~と。

お婆さんと別れてから、日時聞いておけばよかったなーと思ったら旗に書いてあった。
祭の概要も場所も日時も。

ずいぶん古風な広告だったんだね。

本当にここに神社があるのか問題

Googleマップで検索したら確かに神社はあったんだけど、写真を見ての通り本当にこんなところに神社が…?というような雰囲気。

いや、マップにはあるんだよ。
貼ると一撃で住んでるところも人も特定されそうだから貼らないけど、神社はそこにしかないんだよ。

聴いたこともないような鳥のさえずりの中を歩いていくんだけど、人も車も通らなくてちょっと焦る。

嘘だろってくらい何もない。
自然があるって言いたくなる気もするんだけど、木の周りにはゴミが散乱してるし、木は確実に伐採された跡があって、自然があると言うよりは不自然があるなんだよね…。
(西尾維新っぽいこと言った)

本当はこの辺で大量に写真撮っていたはずなのに、僕の壊れかけのiPhoneがサボっていたのか、なぜか道中の写真がほとんど保存されていなかった。
実は途中で墓地があって、こんなところにあるんだなと思いながらパシャパシャやってたものが一枚も残っていないのは、今になって思うと笑えてくる現象だ。

結構歩いて辿り着いたのが、ここ。

20170416222038

その神社には、桜の木があった。

桜の木の下には死体が埋まってるし

ところで桜と聞いて思い浮かべる文豪は?

坂口安吾?
梶井基次郎?

三島由紀夫って答える人がいても夏目漱石って答える人がいてもいいよね。
みんな桜大好きだしね。

それはそうと幻想的な雰囲気だってことは先に言っておきたい。

すごいとしか言いようがない。

村の子供たちが走り回っているんだけど、桜よりも食べ物とか玩具に興味があるらしく、数少ない出店を行ったり来たりしている。

「全然来なぇな」

と、わたあめ屋のおっちゃんがぼやくと、玩具屋のおっちゃんがいきなり大きな声で笑い出して僕の写真がぶれた。

「本番は9時からだな」

いったい何が面白かったんだろう。

このお祭はヨミヤ(たぶん宵宮のこと)と呼ばれていて、僕が来た時間はどうやら早すぎたらしい。
人が少ないおかげで、桜を撮りたい僕にはありがたかったけど。

せっかくだから夜まで待って写真を撮ろうと思い、散歩して時間をつぶす。

日が落ちた。

神社に戻ると、家を出るときに充電100%にしておいたはずのiPhoneの電源が入らなくなっていた。

いい加減、買い換えるべきだ。

田舎の祭は異界のようだった

僕は『夜市』を思い出した。

大学の講義で聴いたことがある。

田舎では過疎が進んでいて、若い人はいなくなるし年寄りばっかり残っている。
田舎の小さな祭から出店がなくなるのも当然で、いつか田舎の祭はなくなってしまうだろう。

もっともだ、と僕はノートに書いた。

客になる子供がいなくなれば、店だってなくなって当然だ。
最近話題になっている『当たりのないくじ屋』なんてものは、こんな小さな祭には来ない。

搾取する相手がいないからだ。

遙々こんな田舎までやってくる移動費すら稼げないんじゃないかと思う。

でもその話は……いったい何論なんだ?
経済学?民俗学?

まあ何でもいいんだけど、僕はライトアップされた桜を見上げながら思った。

祭はなくならないだろうな、と。

「4月は豊穣を祈ってな、8月は収穫のお礼をすんだよ」

賽銭箱に10円玉を入れたら、拝殿の中であぐらかいて酒飲んでるおっちゃんが教えてくれた。

大学時代の僕に教えてやりたかった。
出店がなくなっても、ここで飯喰ってる人たちが生きるのをやめない限り祭は続くだろう。

「桜、きれいですね」

相手がおっちゃんじゃなくて美人のお姉さんだったらなあ。

「本当は雨が降るんだけどな」

「そうなんですか」

「ここの神様は雨の神様だからな」

田舎の人は物知りだ。
ここには僕の知らない常識があるし、死体が埋まっているし雨を降らす神様までいる。

会社も電車も居酒屋もないし、若い女の子もオシャレなカフェもまともな美容院もないけれど。

あの日、教壇に立っていた教授に「知っていますか、桜の樹の下には死体が埋まっているんです」と言ったら、梶井基次郎か坂口安吾か、どっちの答えが返ってきただろうか。

田舎では過疎が進んでいます。
若い人はいなくなったし出店も少ないです。

でも教授。

「祭はなくならないんですよ」

まるで頭の硬い年寄りみたいなことを言っているな。

現実は梶井基次郎や坂口安吾が生きていた明治でも大正でも昭和でもなくて平成だ。

写真を撮れなくて本当に残念だった。

少なくとも僕には、あの空間は大昔から時間が止まっているように見えたんだ。

祭の後の帰り道

祭の後のなんちゃらって言うじゃん?

神社に行くまでの道の写真を見れば分かるとおり、街灯なんて何もなくて本当に遠くにちょっと明かりが見えるだけの帰り道だったわけですよ。

いやーすごい場所だったんだな、と祭の後のなんちゃらに浸りながら反芻していたら後ろに人が歩いてたりしてびびるんだけどね。

気まずさを誤魔化すためにiPhoneを取り出すとやっぱり電源は落ちていて、いつになったら新しいiPhone買えるくらいの収益が出るかなって現実的なことを考えてしまったり。

実は後ろを歩いていたのは子供だったんだけど、墓地の横を通る時にいきなりダッシュで僕を追い越していくから思わず僕も走ってしまったよね。
たぶん墓地が怖かったからであって、何かを見たわけではないと思うんだけど。
(今思うと夜道でおっちゃんが後ろ走ってきたらますます怖いよな)

どうでもいいけど、ああいう墓地にばっかり街灯つけておくの本当にやめてほしい。
需要があるのは分かるけど怖いわ。

いつもは静かすぎる田舎でも、爆竹の音が遠くに聞こえたり、夜なのに子供たちの遊ぶ声が聞こえてきて、ちょっと賑やかだった。

やっぱり祭って特別なんだな。
田舎の祭なんて余所から人が来ることなんてないのだろうし、余所者の偉い人が寄ってたかって過疎で活気もなくていずれなくなるなんて、たとえ本当のことだとしても面白くない議論だなって思う。

そんな人たちは、きっと祭に受け入れてもらえないだろう。
結論ありきで訪れてみても、桜はただの桜だし、祭だって出店と子供の間でしか成り立たないせこいビジネスにしか見えないのだ。

どうせ賽銭投げてもおっちゃんは何も喋らないし、祭が年に二回やることもその理由も知らずに帰ってしまうんだろうなあ。

あーカメラ買おう。
そうだ、カメラが欲しかったんだ。

iPhoneじゃなくてカメラがあれば僕は異界の光景を収めて帰って来られたはずなんだ。
こりゃあ来年の課題だな。

本日、東京の気温は26度だったらしい。
コートも着ずに出た僕はまだ肌寒い田舎の気温に肩をさすって、いつものように静かな家の鍵を開けた。

明かりのついていない家に入ると、暗闇の中、突然バチバチと激しい音が聞こえてきた。

それは、大粒の雨が屋根を叩く音だった。

スポンサーリンク

シェアする

フォローする